先日、女優の篠ひろ子さんとドラマで共演することがあった。篠さんはドラマから離れてもう三年が経つんですと。いやはや他人の時間も自分の時間も猛スピードで流れているんですね。もちろん篠さんは伊集院さんの奥さん。初対面で「旦那がきたろうさんによろしく言っておいてくれって言ってました」だって。あらうれしい、旦那さんとは一面識もないのに、旦那はなんとお茶目な人だ。
「受け月」を読んで、なぜ彼はもてるのか。それは男の影だと書いたことがありましたが、また新たに発見しました。このお茶目さとギャンブル好きだったんです。
私の周りにいるギャンブル好きのパチンコ名人斉木さんにしても、蛭子さんにしても、ギャンブル好きは、好きだと言うだけでいいのに、そこに哲学をつけ加えますね。二人は「ギャンブルは負けるためにやっているのだ」と同じようなことを言っております。博打を全くやらない私には奥が深すぎてわからないのですが、負けも楽しという境地ですかね。それにしてもあくなき破滅願望を私は感じます。
この本の中で伊集院さんも旅から旅へとギャンブルを続ける主人公を通して、ギャンブルとは何か、そして人間とは何かを哲学者のように自問自答してます。結論的には人間と動物の違いは遊ぶこと。ギャンブルも遊びとして、おおらかに楽しむべしということですが、なかなかその境地に達してる人は少なそう。人生を賭けるような勝負をして、ギャンブルはしょせん遊びさ、人生は夢、人生だって遊びさとか言えたら、そりゃ格好いいでしょうね。この小説にはその痛快さと気持ち良いでたらめさが全編にあります。
現実には勝負には必ず負けがあって、「博打で家を建てた人はいない」となるんでしょうが、この小説に出てくる人は勝っても家など建てる人はいませんね。それがギャンブル好きで、勝って家など建てる人はギャンブル好きじゃないということがわかります。「博打で家を…」は博打を否定する言葉じゃなくて、真のギャンブラーを礼賛した言葉だったんですね。
私などは学生の頃初めてやった競馬で、たまたま勝って、すぐギターを買いに行きましたから。なんと自分は建設的な人間なんだろうと思いますよ。物が好きな人はギャンブルはやりません。一番それを手に入れるのにてっとり早いのはギャンブルじゃないとすぐわかりますからね。
でもお金を賭けるってどういう事なんでしょうか。どうやら欲望だけじゃないのは確かなようでうが、私には負けをより刺激的にするとしか思えません。ジャンケンなどのちょっとした負けにも、異常に悔しがる私は永遠にギャンブラーにはなれないでしょうな。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '99年3月号掲載)