最近の本ではないが、どうも本屋で気になった。耳の聞こえない人が女優をやっている。どうやって?聞こえる耳を持った者の単純な好奇心だった。エマニュエル・ラボリさんの自伝を読むうち、人とコミュニケーションをとるとはどういうことか、そもそもコミュニケーションとは何か?考えさせられましたね。つまり、ある人と会話をしたいと思った時、耳の聞こえない人でもそれを妨げる物は何もないんですね。相当な努力は必要でしょうが、手話あり、読唇術あり、通訳あり、口述筆記ありで、誰とでも会話ができるんです。当たり前だよと思ってる方もいるでしょうが、その認識以上にすごいですよ。喋って人に伝達する方法と手話で伝達する方法は、手段が違うだけ全く同じ事なんです。
もしフランス語で私に語りかける人がいれば私は耳が聞こえない人と同じです。全く分かりません。言葉の障害はどちらかが歩み寄るしかありません。それと同じで手話という伝達手段を学べば会話ができるという単純なことに気づきます。ところがこの手話ですが、フランスでは1870年から1976年まで法律で使用を禁じられ、学校教育では1991年まで公的には認められなかったと言うんです。つい最近ですよ。フランスは自由の国かと思いきや、意外と保守的で見栄っ張りの国なんですね。
ではどうやって伝達したのか。相手の口を読み、あるいは筆記してもらい、声はでる訳ですから、発音をチェックしてもらって言語を覚え、発声するという作業です。気の遠くなる作業です。そんな教育を受けていた彼女が手話に出会う所は感動もんです。ホントのコミュニケーションを知るんですから、伝達手段が一緒というのは会話の基本なんですね。
「耳の聞こえない人ばっかりだったらいいのにね」と彼女がベビーシッターのバイトをしていた少年に言う。そこには耳の聞こえない人だけの世界がある。当然意志も伝えあえる。耳の聞こえる世界と聞こえない世界を行ったり来たりもできる。心落ち着けるもう一つの世界があるなんて、ちょっとうらやましくも思ったりしました。そう思わせるほど、ラボリさんはしっかりしている。結局、耳の聞こえる人と聞こえない人、どっちが多数をしめるかという問題で、もし聞こえない人が多ければ、文明は振動とかあらゆる手段を使って進歩したに違いない。喋る言語を使う多数派の奢りを反省しなければいけないですな。
彼女は言う「聞いたことのない音を聞きたいとは思わない。聞こえないこと、それが私の個性であり、才能だから」。私も役者としてのしっかりした個性を身につけなきゃいかんなと教えられました。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '99年2月号掲載)