困った。残酷がエロティズムにこんなにも関係あったとは。薄々かんづいてはいた。私が記憶してる強烈なエロティズムは女性の目の玉をくりぬいて、その子宮に入れるというもの。花村さんのエロティズムもそれに匹敵する。いやそれ以上だ。まったく花村さんはどういう人なんでしょう。
まず本をめくると、丸坊主の花村さんの写真。怖い。悪人顔で、自分を見つめているようだが、怨みを内に秘めてるようにも見える。なおも見ていると、死体を冷静に見ているようにも見える。あふれるパッションを押さえつけて、努めて冷静さを保っている表情。反省はしてるんだが、何度でも同じことをするよと強い意志もある。他者と私は全く違うよと自己主張してるようにも見える。私の優しさはなぜこの社会に通用しないのかと考えているような静かさもある。はたして「笑う山崎」の花村さんの写真はどうだったか改めてみて見ると、猫を抱え、禿げてはいるがめいっぱいお茶目な顔をしてる。賢い科学者がふざけているようだ。でも怖い。
なぜこんなに花村さんの顔写真にこだわるのか。「ゲルマニウムの夜」を読み終えて、主人公の行動とあまりにもその表情がだぶるからだ。というより、一枚の写真が本全体を雄弁に語っている。私には持ちあわせない冷徹さだ。いやこの本を読んである種の快感を覚えるということは、私にもあるのかもしれない。
最初二十ページほど読んで、その日は本を閉じたのだが、私は次の日、友人に「すごいよ 、すごいよ」と言いふらしていた。豚の交尾に関する描写で、しっかり結合した牡どうし。豚の牡の結合ですよ。それだけならまあ、あるかなと思うのですが、抜けなくなって、それを見ていた青年たちは助けるために何をするかと思いきや・・・ああこの後は言いたくても言えない。これから読む人のためにも。とにかくショックですよ。とにかく花村さんは怖い人です。
神父のホモセクシャル、修道女との性的関係、暴力と盛りだくさん。これは単なるエロ小説とどこが違うのか。そう思う方も多いでしょう。決定的な違いは、エロ小説を読むと下半身に訴えて来るのだが、どうも花村さんのエロは脳天にくるのだ。「生きてて楽しいか?」、「自分は自分で守ってプライドを持てよ!」と私の日常生活を脅かす、存在の根底を揺するものがある。
ああ私はエロも暴力も知らずに死に果てるのか・・・。待て待て、それでいいのだ、あやうく非行に走るところだった。その非行を押さえるために言葉があり、小説があるのじゃないか。現実と虚構の落差はなんとも心地よく脳を刺激し、私を別な人格にしてくれる。言語は偉大だね。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '98年12月号掲載)