絶対音感とは特定の音の高さを認識し、確実に音階を言い当てる能力だという。自然界にある音でも、例えばドアの閉まる音や、水洗便所の流れる水の音などすべてドレミのどの音か分かる能力のこと。もちろん音楽も一度聞けば音符に直せる。
これは、特定の人間に備わった天賦の才能か、訓練によって身につけられるものかは、筆者も断定はしてないが、音のとれない私には、はっきりわかる。運動神経のように生まれ落ちた時から個人差のある、訓練ではどうにもならない才能だと。
よくオンチは治るという人がいるが、大人になってからでは絶対に治らないと私は断言したい。私の家系は家族全員がひどいオンチである、絶対音感などかけらもない。八十才になる母はカラオケやら詩吟など好きで、よく人前でうなるのだが、詩吟を知らない私でも、微妙に揺れるその声が、音の真っ芯をとらえてない事がわかる。音楽性を無視して、人前で歌う事だけを喜んでいる。この親にしてこの子ありと思う瞬間でもある。私もカラオケでリズムに酔うというより、感情を発散するのが好きでよく歌うが、何度も唄う歌なのに、どうしても最初の音がとれない。私には音の記憶装置がないのである。
小学生の音楽の授業でオルガンを前に先生が「この音がドです。それではこれは?」と別の音を出す。かろうじて分かるのは違う音だなという事だけ。もうまったくチンプンカンプン。まして和音など言い当てる子供は別の脳を持ってるとしか思えなかった。
今私の回りにいる絶対音感をもっている男といえば斉木しげるである。ものすごい音感の持ち主。一度聞いた曲はハーモニカですぐに演奏ができる。そしてそれが誰にでもできる能力だと思っているのだからすごい。それなのに斉木は歌を唄わせると上手くないし、ステレオも持たず、音楽とは無縁の生活をしてる。この本でも何回もふれているが、絶対音感と芸術としての音楽は別なものだと言う。斉木をみているとつくづく分かる気がする。
絶対音感があるが故に、音楽を聞いても、すぐに音の記号に置き換えてしまうため、情感の部分が欠落して聞こえてしまう人もいるという。才能を持って生まれてしまった人の不幸である。
情感人間の私としては絶対音感がなくてよかったとほっとしてしまう部分であります。ナレーションの仕事などでバックに流れる音楽に酔って読んでいるときに、その音楽の音階がドとかミとか記号が頭に入ってきたら、私の見事なナレーションは成立しない訳ですから。
才能は認めることはあっても、うらやましがることじゃない物なのでしょうね。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '98年8月号掲載)