なぜ人は踊るのか、踊ると言う言葉は健康的だが、なぜレイブするのか。レイブとは本来は荒れ狂う、らんちき騒ぎという意味だそうだが、大型スピーカーから流れる機械音に踊り狂うパーティのことを言う。そのレイブにかり出される若い奴の精神と生態が実に良く認識できる本だ。何時の時代も若い時は集団をつくりたがるし、その反面孤立もしたくなる。しかし、今の時代はより過激に無目的は進んでいるようだ。
70年代のヒッピーは集団を作り、ウッドストックで踊ったり、ドラッグで朦朧としていたが、ピースを旗印に存在価値を誇示していた。レイブの目的はレイブという無目的さは、ちょっと暗い気持になってくるが、より踊りの本質に近づいていっているのだろうか。
私も学生の頃ディスコに行ったが、傑作だったのが新宿にあった三輪明宏さんのディスコで、壁が全面鏡になっていて、全員が鏡に向かって踊っている光景だった。鏡に向かうなら一人で良さそうなのだが、集団がないと、つまり同じことをしてる人達がいないとナルシスチック恍惚感はやってこない。踊りに集団が不可欠とは実に不思議だった。なぜ人は一人では踊らないんだろう。集団はどこか暴力の匂いがあり。確かに興奮させてくれ、意味不明の連帯感と強烈な孤立を感じさせるからだろうか。でも鏡に向かう行為はまさに70年代のディスコを象徴している。まだ自意識を持ちながら踊り狂っていた訳だ。
ところがレイブは自意識を捨てることから快楽を得ようとする。音に身を貫かせ、ひたすらトランス状態を目指す。個人のために集団を利用することが明確になってきている。作者の言葉を借りれば「死なずに死ぬ」行為だという。
オヤジの老婆心だが、それが生活の中心になった時、インドならいざしらず、この日本ではレイブの後に現実社会に適応できるんだろうか。余計なお世話だが、祭りやマラソンのナチュラルハイのように日常の区切りとして、踊り狂って欲しいと思ってしまう訳だ。
作者はレイブを求めて各国を旅する。レイブは随分前から世界的なは現象らしい。人間は知的でありたいと思う反面、知を忘れたい動物なのだろう。原始への回帰、よりシンプルな生活の憧れは強くある。このまま物質文明が進んでいく恐怖は、その社会を外側からみれる自己破壊願望の若者にしか分からないのかも知れない。
レイブはやはり屋外が気持いいらしい。大地を踏みしめて集団で踊る原始的な行為は、確かに現代人が忘れてる宗教とは別次元のより人間的な行為なのかも知れない。
明日は土の地面を探して裸足でマラソンでもしてみるかな。あるのかいなそんなとこ。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年12月号掲載)