先月アメリカの先住民インディアンの居住区に行く機会があった。まさに西部劇に出てくる大地があったんですが、そこで思わぬことを聞いた。今アメリカではインディアンの若者の自殺者が増えているのだという。昔からのインディアンの教えが文明社会とぶつかる時、どうしょうもない虚しさに襲われるという。それはそうだろう。大地を母として大空を父として自然とともに生き、蜜蜂は必要以上に蜜をため込むから、熊に取られるのだという教えは、物欲ギラギラのアメリカの社会と合致するところがない。そして自分にも強烈な物欲があると気づいた時、どう社会に適応していいのか分らなくなるのだろう。となると、どんな良い思想であれ現実の時代の流れが見えなくなる思想を子供の頃に植え付けるのは恐い事だなあと思ってしまう。
今の中国は、どうなのだろう。まだまだ発禁本があるというのだから、思想の選択はありえない状況にあるのだろう。この「裏切りの夏」は中国が自由な思想を獲得するかに思えた時代に、あの天安門事件で全てが押しつぶされた顛末が一人の女学生の生々しい感性で書かれてゆく。だが読み進むにつれて、発禁になる理由が権力者批判というよりも、激しい性の表現にある事がわかってくる。女性の自立と性の解放が大胆にもせつなく歌いあげられてゆく。まあ、性の解放が統制された社会を切り崩す原動力になるかどうかの難しい判断はさておいて、この本は一人の美しく生まれてしまった女性の悲劇としても充分楽しめる。
男の女性に対する性の考え方が、女性の目から語られる時、身につまされるものがある。男はどうして美しい女性へ、美しい女性へと言い寄っていくのだろう。本能的なものだろうか。その女性が心も身体もズタズタに傷ついているのに、その女性が美しくあれば、男は肉体的な接触を考えている。情けない。はたして、目を覆うような女性であれば男はどんな態度をとるのだろう。男の胸で心癒されるのは美しい女だけなのだろうか。そして、癒されたと思った瞬間、それが男の性欲だと知った時、美しい女の悲劇は並の女の辛さの何倍も味わうことになる。美しい女は普通に生きても男に言い寄られる。それは幸福なんだろうか。ふとダイアナ姫が思い浮かぶ。
主人公の女性は語る。「どうして女が、許しを与えることになっているのだろう?どうして女が、何かを失うことになっているんだろう?何かを失うのは男の方なのに。」
男も女も失うことなど何もない、おおらかな性の時代はいつかくるんだろうか。
日本もまだまだ女性に対する性の考え方は中国同様、遅れているようだ。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年10月号掲載)