なんと爽やかな本なんでしょう。大ベストセラーが頷ける。瑞々しい少年期の感性に触れると、大人であることが恥ずかしくなります。少年期の誰も止めることのできない好奇心、子供の目から見た大人の恐さ、理不尽さ。実に懐かしい気分で思い出させてくた。
「少年H」と私とでは少年期の時代背景は違いますが、過酷な第二次世界大戦の戦時下の神戸が羨ましくも思えてきます。時代が動き、大人の考え方も揺れ動く中、冷静な判断と遊びながらも生活の手段を探そうとする「少年H」に感動もんです。小さな街の風景と人々を描くだけで、戦争のナンセンスと日本人の戦争に関わっていく様子、そして敗戦から民主主義へ移行する動揺が語れるとは恐れ入りました。 軍国主義を知るには、この本一冊でO・K。
後から考えれば笑っちゃう様な事が真剣に行われる絶対者のいる洗脳された社会。戦時下の野球用語などの外来語の禁止は知っているが、動物の「カンガルー」という言葉も使っちゃいけなかったとは本当かいな。人間は極限までバカになれるという気がする。外来語禁止にしても、子供達はそれを遊びにしてしまう逞しさ。世の中のバカバカしさを嗅ぎ出す子供の直感力は、利害関係がないだけに案外正しいのだ。
直感力といえば、生徒が先生を人間として尊敬して認める時の判断は、大人の時より子供の方がある様な気がする。子供が認める先生は大概いい先生だ。子供は権威主義的な先生は素直に嫌うし、子供にすり寄ってくる先生もバカにする。子供にも大人の生き方が見えているのだ。この本では中学の学校生活に多くページをさいているが、好きな先生と嫌いな先生がはっきりしているのには笑える。
私も中学、高校時代に思いを馳せて、好きな先生、嫌いな先生を思い出して見ると、意外といまの自分を形成している原点みたいなものを見つける。昔から私は恥ずかしそうにしている先生が好きだった。厚顔はなんか信用できないな、何か隠してるんじゃないかと思っていた。とりわけ好きだったのが、授業は真面目に聞かなかったが日本史の先生。広島の出身で児玉先生。ひょろりと背が高く、いつも猫背でクックッひきつるような笑いをして恥ずかしそうだった。最初の授業で「日本史を古代からやりますか、現代から遡って行きますか。皆さんで決めて下さい。」とおっしゃった。これには驚いた。学校教育が世界大戦の現代史をなおざりにする先生の抵抗であったのかも知れない。さすが被爆地広島出身。生徒を生徒として認めるその姿勢に、その先生がいっぺんに好きになった。
今一度、少年の感性を呼び戻してくれた「少年H」に感謝します、
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年7月号掲載)