公園を歩いていると、後ろから親子の会話が聞こえて来た。母親と三才くらいの男の子。母親が問題を出している。「ピンク色の花で、パッと咲いてパッと散るものなあ〜に?」
男の子が答える。「う〜ん、サクラ!」
ママは大喜びで、「あたり!」
ここまでは当たり前なのだが、この後チビは突破する。
「もう一回、サクラ」
と問題をねだる。前を歩いていた私は思わず笑ってしまった。母親は微妙に問題を変える。
「ホラホラ見えて来ました。あの花は何でしょう」
「サクラ!」
まさに「突破者」の定義そのものである。「がむしゃらに走り続けるのだが、何処へむかって走っているのやら当人自身もわかってない、といった人間を評する言葉である」クイズの本質を無しにしてしまったチビは、無茶者である。
本来は「とっぱ」とは関西の言葉で、土建業界で使われるらしい。とことん突っ張って、がむしゃらに事を解決する人だと云う。関東では「切れる」という言葉に近いかも知れない。
この本では、グリコ・森永事件の「キツネ目の男」として容疑をかけられた事のある宮崎学の「とっぱ」する半生が書かれていく。格好よく、面白い。宮崎氏に一貫しているのは権力に逆らう姿勢だ。ヤクザの家系に生まれ、早稲田大学に入り資本論を読んだりして、学生運動に関わっていく下りは圧巻だ。インテリヤクザと云われる由縁だ。内ゲバを喧嘩としてとらえ、勝つか負けるかしかないとボコボコやり合っている。思想など放っぽいて勝つための戦略をねったりする所は、まさに戦争映画を見る面白さがある。
私も一九六八年の一〇・二一の新宿騒乱事件の時は大学一年生。まだ学生運動をするべきかどうか迷っていた。いわゆるノンポリだったが、親しい友人が二人逮捕された。一人は四年後の就職にその逮捕が影響して、中小企業を選ばざるをえなかった。今思えば、先輩達の戦争ごっこの犠牲になったとしか思えない。訳も分からぬ一年生をオルグって兵隊を集めていたのが宮崎氏と云う訳だ。物事を当事者と反対側の視点で見ていくと、出来事が立体的になってゆく。ある集団に所属できないノンポリこそが時代を変えられ原動力になるんじゃないかとも思い始めた。まず個人で物を考える。戦争を回避するには、集団狂気に対してどういう立場をとれるか。国際的な反戦を望んだ学生運動が、そんな教訓を残すとは、なんとも時が過ぎた後の時代認識は残酷である。
所詮、「突破者」になれない。「とっぱ」して意地を張りすぎた場合、自分に自己嫌悪の残る私は、突破者を羨ましくも思い、すぐ側にはいて欲しくないと思うだけだ。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年5月号掲載)