村松さんとはNHKのレギラー番組で月に何度かお会いした。実にもの静かな人で、ショットバーのカウンターに一人で座っていても様になりそう。私が飲み屋に一人で居たら家出して来たおとっつあんにしか見えない。なんとも人生は不公平だ。最初の印象は生き方にポーズをつけて気取っているのかと思ったが、どうもシャイでそういう態度しかできない事が判明した。人の話を聞くのが上手で、喋る時も言葉をどこからか拾って来るような話し方をする。喋るエッセイストといった感じだ。村松さんは自然と女が寄ってくる典型的な昔の二枚目のパターンと言ってもいい。
そんな村松さんと完全に重なるのが、この「激しい夢」の主人公。知的過ぎずに、女性の話をよく聞く。そしていつも回りには女性がいる。男性との距離より、女性との距離がもの凄く近い。子供の頃なら「シスターボーイ、シスターボーイ」と、からかっていた所だ。そういえば最近聞かない、このシスターボーイと言う言葉。あれは女心が分からないヤボな男の嫉妬だったんだろうか。それにしても、村松さんは女性の描き方がうまい。うますぎる。五木寛之さんもそうだが、顔立ちの整った男性の描く女性と、不細工な男が描く女性とでは明らかな違いがある。なんといっても男女関係が爽やかというかクール、男の方が知らずに受け身になっている。私なんぞはすぐ女性に甘えたくなるタチだが、二枚目が女性に甘えてるのも、絵にならない。顔形で口説き方も違ってくるんだろうな。まあ一長一短という事にしておこうか。この小説はそんな女の口説き方を表現したかったんじゃないと村松さんに怒られそうだ。
小説の時代は「若かったあの頃、何も恐くなかった」の70年前後の学生運動盛んな頃、私も神田川をしていたが、本当にあの時代はなんだったんろう。将来の事なぞ何も考えなかった。回りの人間がみんな、村松さんが言っているようにポーズをつけていた。革命家気取りだったり、文学者気取り、フーテン、評論家、音楽家。とりあえずサラリーマンじゃなきゃ何でもいいという感じだった。その頃を村松さんは激しい風が吹いていたと書く。
当然、村松さんは世代的にちょっと上だから、その時はすでに社会人。その風の余波をくらった様子が、気負いもなく明快な論理で展開されて行く。上の世代から下の世代を見ると、このガキどもは何いきがってるんだというのが常だが、あの時代ほど、先に生まれてしまった事や、遅れてしまったという事を意識した時代はなかったろう。確かに激しい風は生きるって何かを真剣に考えさせてくれた。しかし今ではすっかり忘れてる。本当にあれは風邪だったのかも知れない。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年3月号掲載)