惜しい人を亡くしたものだ。単行本未収録のエッセイと言うことで、私としても香典のつもりで「ウィニングボールを君に」を手にした。プロのスポーツ選手を、そしてあらゆるスポーツをどれだけ見ているのだろう。想像を絶するフットワークだ。プロに接する事によって、自分も書き手のプロであらねばという自覚が必然的に出て来たのであろうか、どんな雑文でも無駄がない。結果そう思うのか知れないが、命を縮てるなという気さえする。山際さんの場合は、スタジアムに居合わせるだけでなく、膨大な資料を読み、かつインタビューをする。自己主張を押さえ、スポーツ選手のために、絶対読み手をがっかりさせなぞという献身的な意志すら感じてしまう。本当にご苦労様でした。
影響されやすい私としては、スポーツって何だろうか。トイレで30分も考えてしまった。出たウンコは、いや結論は、スポーツと言っても観客がいるか、いないかでは質が全く違うものだ言うことだ。一人でジョキングするのと、歩道いっぱいに観客とテレビカメラのいるマラソンとでは同じスポーツという言葉では語れない。否応なしに、なんだか分からない人間性が出てくる。草野球にしたって、見てる人がいるかいないかで大きく違う。目立ちたいと言うかプレッシャーと言うか、人間の根源的なものが出てくるのだ。私がそれに気づいたのは、小学校の野球部にいた頃だ。我が国府台小学校は左の本格派ピッチャーがいて滅法強かった。私は将来の長嶋と期待されサードを守っていた。地区大会で連戦連勝、決勝まで勝ち進み、決勝は我が校庭でやることになった。そこまでは応援などなく、ただ敵チームと自分との戦いだった。それが、全校生徒の前で試合をすることになった。試合前から熱くカーッと燃えるものがあった。これがスポーツだ、ドラマだ、文化だ、創造だ。子供心に思ったに違いない。案の定、くる玉くる玉、エラーに次ぐエラー。捕れたと思ったら暴投。最後には俺の所にボールが来るなと祈った。それでも優勝はしたが、私は次の日、センターの守備を言い渡された。人生最初の挫折だった。かくもスポーツとは奥の深いものだ ったのか。観客がいて始めてスポーツと言えるのだ。
その気持ちの高ぶりを知っていればスポーツ観戦の場合でも違う。私は高校野球の地区予選の季節になると、多摩にある一本杉球場に足を運ぶのだが、見るからに弱いチームの8番バッターが、快音を残してヒットなど打とうものなら、目頭がジーンと熱くなる。へたすると泣いている。これは決して感動とは言えないものだ。
スポーツは技とか勝ち負けを越えた、人間への愛を呼び覚ますとしか思えない。山際さんも、そう思っていたに違いない。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '97年1月号掲載)