今、シティ・ボーイズライブ大阪公演の真っ最中。本を読んだり、映画を観たりすると、どうも「お笑い」の感覚が鈍る様な気がして遠避けている。昔は、公演中そして本番10日前からSEXもやらない様にしていた。人間の脳ミソは1 日の集中力の分量が、決まっている様な気がする。映画で感動などしようものなら、その日のお芝居のパワーは極端にさがる。SEXもその様な気がしていたが、今はSEXは大丈夫と、勝手に思い込む事にしている。
そんなこんなでお気軽な本を選ぼうとしたのだが、手にした本が西木正明さんの「渾身の長編青春小説750枚!」。どうも現実はいつも無謀な方向へ行く。後書きに自伝小説とある。女を追い求めてアラスカに行ってしまうとは、「彷徨った青年の魂の軌跡」と云うより、血迷った青年である。だが、1970年、日米安保闘争終結の年、その時代を考えると、、自分の回りにいた仲間も随分血迷っていた。時代がなせる技だなと、なつかしい気分で読んだ。西木さんは自分を「時代からの逃亡者」と位置づけているが、この言葉自体も、あらまあ青春しちゃってという感じが強い。今ならただの旅だが、1970年は時代からの逃亡なのだ。別の言葉でおき変えればなんと「革命」。あの頃程、現実とロマンの狭間を揺れ動いた時はない。「ごっこ」と云われればその通りだが、ノンポリの私にも「革命」という2文字は重かった。演劇をやりつづける私に、そんな事やってる時代かと罵声が飛ぶ。演劇は革命の手段ではないとか云っちゃって。人生の真面目な時期を、あの時代で全部使っちゃった様な気がする。
さて、この『氷海の幻日』は展開が速くて読みやすい。自分の事なのでウダウダ書くのが恥ずかしいのだろうなと云う気もする。そのシャイさが可愛いい。旅で会うドラマチックな人々。これが現実、小説じゃないのとも思う。まあ、現実は小説より奇なりと云う事か。
激動するあの時代、実は私も九州までの自転車旅行を「精神修業の旅」と銘うって彷徨った事がある。片や極北の地アラスカ、片や南国の九州。なんというスケールの違い。しかし、私にだって数々のドラマがあった。岡山の田舎に帰ってしまった好きだった女性に会いに行ったのだ。彼女がアラスカに行けば私だって行ったかも知れない。場所が違うだけで本質は同じだ。
齢になると、どんなすごい事も、なんでもないような事のような気がしてくる。いい事か、悪い事かわからないが、それを私は一応、達観と呼ぶ事にしている。その達観は、精神修業の旅に出たのに、自転車をこぎながら次に何を食べるか、それしか考えられない自分を発見した時に形成されていたものかもしれない。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '96年7月号掲載)