「明日は常に新たな日」日めくりカレンダーに出てきそうな言葉だが、時として心にストンと落ちて、電流が走る事がある。
テレビを付けると映画「赤毛のアン」。アンちゃんが学校の先生に言われていたセリフ。前後の内容は見ていないが、そういう事なのだと妙に納得してしまった。「明日は常に新たな日」なんとも希望に満ちた、過去に縛られず、何をやってもいいという気になってくるではないか。
何の具体性もなく、生きる勇気が沸く。実に宗教的だが。無神論者の私にも、こういう事があるのだ。宗教がなくても生きていける所以である。
多感な時期に、エッチな気分でフロイトに接したのが運のつき。そこに、宗教に入る人は弱い人だと書かれていた。最初に出会った宗教に関する本がそれなもんで、この歳までずっとそう思い込んでいる。
だから、この少年少女のために書かれた『蓮如物語』を読んでも、その観点からしか読む事ができない。宗教を信じている人が他の宗教を排斥するのと同じ様に、客観的に物が見られなくなっているのかも知れない。
しかしはっきり言える事は、宗教は「救う人」と「救われる人」があるという構図だ。「救われる人」はどうしても、弱い哀れな人と言えないだろうか。できるなら「救う人」になりたい。当然、弱い方はいやだ。凡人は誰でもそう考える。
現代宗教は、いとも簡単に「救われる人」から「救う人」になってしまう。だから救わなくてもいい人まで救おうとする。組織の拡大ってやつだ。普通の人が「救う人」になっているのだから当然である。
五木寛之が蓮如に託したかったのは、真に救って欲しいと思っている人を救う。ここに宗教の本質があるという事ではないか。そして「救う人」は、神秘主義で己を救おうという我欲がなく、他人に対して並はずれた献身ができる人。組織の利益を考えない。つまり、選ばれた人であるという事ではないか。
どう考えても私は選ばれた人である訳がない。己が大事。だったら「救う人」にも「救われる人」にもならない方がいい。救われる事を望まず、宗教のない所で「救う人」に近づく方が賢明だ。それは知と優しさと思いやりがあればいい。
飢えや野たれ死が無くなった今の時代、本当に救われなくてはならない人は誰なのか。宗教は真理の探求、悟りを開くといった傾向にあるが、私はこの悟りを開くというのが大嫌いである。どうも利己的な気がする。宗教家なる者は、まず、他者に尽くす。他者を考えられない人が、宗教家になるなんて、ちゃんちゃらおかしいと言うものだ。
だが、死を前にして宗教観は変わるかも知れない。それはそれでよし。とりあえず、「明日は常に新たな日」なのだから。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '96年3月号掲載)