イタリアはローマで財布をすられた。泥棒は死刑という中国でも財布をすられた事がある。私は日本を代表する盗まれ上手だ。人がごったがえす所で、そんなに私は無防備に見えるのだろうか。くそったれ! 盗賊どもは大宴会をして、バカな日本人がよと笑ってるに違いない。金を取られたのも情けないが、狙われる自分の顔、動作、有頂天さが情けない。金を2つに分けて持っているから大丈夫と思ったが、その1つを盗まれたら何にもならない。浅知恵であった。全額持って細心の注意を払うべきだった。いかんいかん、その発想がダメだ。この歳から細心の注意が身に付く筈がない。小市民的生き方そのものを変えなきゃ、同じ事がまた起こるに違いない。この事件をキッカケに生き方そのものを変えてやる。
そもそもローマでは、ブコウスキーさんが最も嫌う、小説の題材にもならない俗物どもが集まるブランド店が居並ぶストリートで盗まれた。ほんの2、3分の出来事だ。妻のバッグを買ってやろうとフェラガモの店に入ってカモにされた。店に入る前に財布を確認する私もバカだが、入る時にはあった。支払う段にはなかった。これでは盗賊どもにバッグの中の財布の位置を丁寧に教えた様なもんだ。その店は日本人のおまんこで超満員(ここの表現はブコウスキーの影響を受けている)だった。ハイエナのようにブランドにたかる日本人のまぬけさに呆れ、何でこんな日本人が多いんだと嘆かわしく思ったが、私もその日本人であり、私が一番のまぬけだった。
否定するものは、しっかり否定しなくてはならない。中途半端こそが敵だ。ブコウスキーさんの否定はすさまじい。右も左も崇高なる者も俗物も、価値ある物もない物も、自分さえも否定する。全部くそったれだ。マゾヒステックな露悪家の様にみえるが、しっかり堕落している所が偉い。唯一の出口が「人生は、見かけ通り悪いが、あと3、4日生きるには値する」。そして、この3、4日に何をするかと言えば、酒を飲んで、タイプを打って、おまんこ、おまんこと騒いでいるだけなのだ。
人間は大ざっぱに、堕落に憧れる人とそうでない人に分けられると思うのだが、これは獲得形質ではなく、もって生まれた性質のような気もする。堕落、自暴自棄にいっさい憧れや嫉妬を持たない、日常を穏やかに、建設的に、お金の好きなエリートや普通の人にはウンコみたいな本かもしれない。だが私のような堕落したくてもできない臆病者には、最良のカタルシスになる本であった。殺那的に生きるのは、どこか淋しくて格好いい。私の金を盗んだ盗賊どもは実に殺那的だ。私はその生き方に協力したと言えるかも知れない。そう思えば、……くそったれ!早く捕まっちまえ!( 協力 / 桃園書房・小説CULB '96年1月号掲載)