可愛い本である。「前向きに生きる」とか「人と真正面から対峠する」なんて、口に出して言うと気恥ずかしい言葉だが、正々堂々と素直にやられると、ちょこっと元気が出てくる。ちょこっとというのは、多分明日には忘れてしまっているだろうというニュアンスが含まれている。でもそれでいいのだ。のべつまくなく素直で元気な大人がいたらウザッたくてしようがない。一瞬でも素直になれたり元気になれれば本を読んだ甲斐があると言うもんだ。
17歳の女子高生が、ある日突然42歳のおばさんになって今の時代を生きるはめになった話なのだが、SF小説とはちょっと違う。分かり易く言えば、17歳から42歳までの25年間の記憶が欠落してしまったおばさんというべきか。まさに『スキップ』してしまった訳だ。42になれば旦那はいれば子供もいる。自分の過去なのに覚えがない。この小説の可愛い所は、失われた過去を詮索しようとせず、その日から今を生きようと前向きになっちゃうあたりにある。
記憶喪失ではなく、時空を越えたのだと少女(おばさん)は言う。家族もそれを認める。この小説の作者も認めたがっている。だがどうみたって記憶喪失だ。しかし、私も読み終わった後は時空を越えたと認める事にした。その方が優しく格好いいではないか。
私にしたって役者を志したのは17の頃。大学に行ってもブラブラ、卒業してもバイトをしたり芝居をしたり、結婚して子供を生んで、今に至っている。その間の中身があったのかなかったのか。ただ今があるだけだ。過去に対する記憶力の悪い私はいつも時空を越えている。経験が役だって、17の頃と決定的に違う事といったら、他人を認めるようになった事くらいか。
考え方も、人生観も若い時に形成されたまま大人になって、いつまでも若い時の自分のままだと思っていた。全く、小説の主人公、おばさん少女の旦那と一緒である。ところがである。肉体が42で精神が17の少女と対面すれば、その精神の若さは決定的に違う。まさにここがテーマだ。私もハッとして愕然としてしまった。
自分は若いと思っている大人どもよ! 精神の若さが微妙にズレている事に気付きなさい。若かったらこうしているのに、そうしてない。大人の恋に憧れて、でも、今思えば少年の一途な恋をしていたあの頃。確かに、決定的にズレている。若いままである訳ないのだ。そのズレを修正して、若い方を選ぼうが、大人を選ぼうが、それはそれぞれの生き方。だが、ズレを認識するかしないかは、自分が若いと思っているだけの大人よりは数段賢そうだ。俺も明日からズレの点検をするか。車体は古くてもエンジンは若い方がいい。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '95年12月号掲載)