物を考えたり、想像する事と現実は途方もなく隔たりがある。その最たるものが恋愛であったりする訳だが、他にもある。
先日、旅番組で広島の方に行った。ロケバスで市内を移動中、変なおじさんを見つけた。そのおじさん、ダンボールで暮らしているおじさんの様にも見えるのだが、雑巾を手にして、金属質の物を見つけると磨いている。自転車のハンドルを磨き、ビルにはめ込まれた金属の表札を磨き、鉄柵を見つければ、セッセと磨く。街には膨大に金属質の物が溢れている。おじさんの仕事には事欠かないだろう。おじさんはいい人に違いない。昔、貴金属関係の仕事をしていたのだろうか。江戸時代に生まれていたら、苦労するだろうな。現実から落ちこぼれた自分を現代の象徴ともいえる金属を磨く事によって、ちゃんと今を生きてますよと表現しているのだろうかと想像は果てしなく広がる。しかし、現実は異常な潔癖症だったりする。
今朝も、公園を散歩していたらベンチでギターを抱えて居眠りしている少年を見かけた。想像は広がる。家なき子か。現実は知りたくない。
この現実と想像の行ったり来たりがあるから生きてることは楽しい。恋愛の場合はそれがあるから、苦しかったり孤独になったりしてしまう。まさに『感情漂流』してしまう。現実と想像の隔たりが大きすぎる。
夜、こんな身も心も美しい女性がこの世に存在するかとハシャギ、ぼおっとしていたのに、昼会った途端、オヨヨこれは違う女性だとなってしまう現実。これをフランス人は気取ってよく「不在」という言葉を使う。側にいるのにこの人は自分の想像で作りあげた女性と違う、そこに居ない様な気がするという奴だ。あ〜孤独だなとなってしまう。なんか甘っちょろいと思いません。
それを現代の物と情報に溢れ、それについて行けない、ついて行っても実感がない都会の孤独へと発展させる論法は、私はもう結構。ヨーロッパで大ベストセラーだそうで、読者層は18歳から23歳だという。うなずける。
複雑になった現代こそ、単純な発想が大事な事にそろそろ気づいてもいいんじゃないだろうか。ついていけないものは、ついていかないと意思を表明すればいい。ついて行く必要もない。西欧は日本にも今はなき武士道を知りなさい。女性は守るべき存在だと。そこに「不在」はありえない。とか言っちゃって、現実の私はフランス人の様にだらしない。
今、「フランス人の様に」と書いてしまったが、まさにこれも私の映画やら本で想像したフランス人、現実のフランス人はどうなのでしょう。「本当に出会うために出発する。このメッセージだけは頂きました。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '95年8月号掲載)