好き、嫌いは別にして、東海林さだおさんの漫画やコラムを読んだ事のない人は、40代の男性にはいない筈だ。大メジャーの作家である。ところがだ、漫画の単行本はともかく、コラム、エッセイ、日記など立派に装丁された単行本は、ちょっと買う時にためらう所がある。
「よおーしオレは東海林さだおを読むぞー」と意気込んで読む人は誰もいない。ドストエフスキーと対極にある作家と私は位置づけている。そのためらいのせいか、我が家にある東海林さだおの本は、古本屋で買ったものが多い。ショージ君なら許してくれるだろう。卑屈になったり、恥を耐えて、顔面から汗を噴射するショージ君だって、東海林さだおの新刊本は買わないに違いない。いや、ショージ君は絶対買わない。むしろ、ドストエフスキーを買うタイプだ。
ショージ君に似た小市民の私は、そこで気づいた。ちゃんとした書店で、東海林さだおの新刊本を買う事が、ショージ君を越える事だと。これこそが心の余裕であり、大富豪になった気分がする。
今回の本が凄い『アイウエオの陰謀』。本の帯には「小説界に新風」と書いてある。ついに東海林さだお自己革命をしたかと思った。読んで見ると、新風はどこにも吹いていない。いつもの風だ。それも微風。私はホッとした。どうでもいい、小さな所にこだわっている。よしよし、ショージ君は健在だ。きっと私が本を購入している時、ショージ君は柱の陰で、あの新風という文字を消したいと大粒の汗を噴射していたに違いない。でも、いいんです。大富豪の気分が味わえたから。
東海林さだおは、無機的な物を擬人化する、いや、小市民の心を吹き込む事に関しては天才という賛辞では足りないくらいに、繊細だ。この本も表題の他に沢山の擬人化がある。道具の気持ちやら、お魚の気持ちが手に取る様にわかった。実に人は、騙し、騙されながら生きているんだなと、人間の姑息さに笑いながらも、哀しくなってくる。
中でも凄いのが「わたしは冷蔵庫」。ウ〜ム、これは新風と言っていいかな。擬人化ではない。工事現場のおじさんが、自分が冷蔵庫だと言い張るのだ。もう狂ってる。「じゃあ、物が冷やせるのか」と聞かれると、今はこわれてるからダメだと言う。ひっくりかえって笑ってしまった。オイオイ、そんな展開ありかよ。
一度聞いたギャグは、余程、芸がないと笑えない。だから今、若手のコメディアンは、客の予想を裏切って、早め早めにネタとは違う視点から落とそうとする。その時代の傾向からいえば、まさに東海林さだおは今もまだ若手コメディアンの一翼を担える1人だと断言できる。大御所シティ・ボーイズの5月のライブも見にきてね、ショージ君。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '95年5月号掲載)