根っからの大相撲ファンのオレには堪らなくスリリングな本だった。『雷電本紀』。
いやあ、しみじみと興奮させてもらいました。読めばわかる、この「しみじみと興奮」という文学的表現の意味が。
役者稼業のオレはどんな役者にも憧れた事はない。あの位ならオレにもできるわい、なれるわいと思う傲慢な性格によるが、その反動かどうか、スポーツ選手には異常な程憧れてしまう。どう太刀打ちしても、プロ野球の選手にも、ましてや相撲取りになれるわけがない。
見事にライトアップされた照明に輝く、マワシ一つの男達。一見まぬけに見える幕内の土俵入り。柏手打って、手を上げて、化粧回しを掴んで頭をさげる。どんなにやる気なさそうにしても、オレには羨望以外の何ものでもない。銀幕のスターが消えて久しい今、スターは土俵上にしかいないと断言してもいい。
雷電為右衛門、当然名前は知っていた。だがオレの知識は、目茶苦茶凶暴で、相手力士を高高と頭の上まで持ち上げて、土俵上に叩き付け、殺してしまい、打ち首になった鬼の様な力士というものだった。だから、読みながらも、いつ殺すのかいつ殺すのかとハラハラのしどうしだった。ところがだ。誰も殺さず、打ち首もない。それどころか、長く力士の頂点を極め、引退後も、親方になって部屋を興しているではないか。オレの情報はどこから得たものなのか。正直言って、土俵を去って、雷電50歳を過ぎても、又土俵に上がって殺すんじゃないかと、最終ページまで思い込んでいた。オレも相当しぶとい。
この本によると、雷電は情に深く、弱者の味方で、権力に妥協せず、赤子をみればあやし、飢餓的状況にも生きる勇気を与える心優しき大男として描かれている。だからだ、だからこそ、こんな一途な力士がいつ怒り狂って人を殺すのか。そんな事をしてくれるなという願いが、どんどん大きくなる。雷電に関する子供の頃得た脅迫観念的知識がなかったら、この本の読み方も違っていたかもしれない。こんなにもスリリングに読めなかったかも。所詮、知識なんて自分に都合いいように肉付けするものさ。
いや待てよ。作者は、物語の構成上、人殺しの事実を隠しているのでは。調べてみようかとも思った。でもやめる。「しみじみと興奮」を壊したくない。本のままの雷電がいい。
小兵が逆転相撲で勝っても、結局は脇役。その印象は長くは記憶に止めない。柏鵬時代の柏戸の口を半開きにしての怒涛の寄り、琴桜の頭突き一発。粘って勝つのは客は沸かすが、それだけの事。相撲は圧倒的がいい。
貴乃花よ! 他を寄せ付けないがむしゃらな攻めを磨け、受け相撲は末代まで残らない事を雷電が教えている。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '95年4月号掲載)