タレントの笑い声とスタジオの喚声、正月番組の喧騒はいったい何だったろう。俺も同業者なので偉そうな事は言えないが、笑い声が陽気な気分にさせない。私が病んでいるか、業界が病んでいるかどちらかだ。
何が欠けているのか? 新しい発想はもちろん大いに欠けているが、決定的に欠けているのは、メッセージ、つまり、伝えたい事がなく笑い声があるという状況。メッセージは一般人とは違うタレントの生き方であり、ビジョンの様な物。しかし、テレビの電波から伝わって来るのは、何が何でも笑わせれば金になるという構造だけだ。皆さんいい子ちゃんなのだ。笑い声の虚しさはこの辺にある。たけし不在は、よりテレビを暇つぶしの道具にしてしまった。
以前は、タレント自らが、あれ程バカ笑いする事もなく、笑いを提供する側にいて、他の奴とは同じ笑わせ方をしないといったメッセージがあった。タレント総素人化はまだまだ進むのだろうか。
正月番組発想の貧困で、4文字熟語を言うゲームが、2本もあった。俺としては、その場で『顔面麻痺』と言い放ちたかったが、飲み込んだ。悪意としかとられない事が分かっているからだ。そりゃ笑わせる為の悪意がないとはいえない。しかし、それ以上に「顔面麻痺」を受け止めて生きていこうとするビートたけしの心意気に惚れていた。そのメッセージが言えなかった俺も、結局いい子ちゃんでしかなかったのかも知れない。
この本は、実に格好いい、格好良すぎるかもしれない。罠にかかって傷ついたライオンは、他の動物に食われるか野垂れ死にするしかないのだと自分を位置づけているものの、自らの意思でそれを乗り越えられるかも知れないと試行錯誤を繰り返している。最終的には「顔面麻痺」という枠組みの中で、その枠組みの外にいる奴を妬むのでなく、その中で目一杯生きて楽しんでやるといった結論をだす。もうダメだと弱気になる事もあったろうに、なんという切り換えの早さ、強い意思なんだろう。
たけしはタレントだが、テレビに出たいだけのタレントとは確実に違う。メッセージを持つタレントと芸能人づらをしたがるタレント。今や、茶坊主みたいなタレントが多すぎる。
メッセージは時代を引っ張るような格好いいものである必要はない。目茶目茶くだらなくても無意味でもいい。いい子ちゃんでいるよりよっぽどいい。
提供する笑いが、家族でトランプでもやっている時に起こる笑いで、どうしようってんだ。見る側も、そんな笑いが欲しければ、横着せず自分達で遊びなさい。よっぽど面白い。
今年の抱負は「笑いの地位向上、いつも心にメッセージを!」
「顔面麻痺たけし」のメッセージを俺は首を長くして待つ。( 協力 / 桃園書房・小説CULB '95年3月号掲載)