自分が気にかけていなければ、見過ごしてしまうのだが、ひとたび気になり始めるとやたらと目に飛び込んでくる物がよくある。 今の私には俳句とか短歌がそれだ。よくよく日本人は歌が好きなんだと思う。ちょっとした公園にいけば、歌を刻んだ石碑を見つけ。新聞、雑誌でも片隅に俳句の1つは必ずある。まさに、見過ごしてしまいそうな所にあるのだが、どっこい根深く生きている。
先日も歯医者の待合室で雑誌をめくっていると、、山頭火の特集などあった。普段なら出会わないのに、気にかけていると向こうの方からもやってくるもんだな〜。ウムウム運命とはこういうものかも知れんなと、山頭火の句を読みながらしみじみしてしまった。
それほど私は短歌が好きという訳じやない。学生の頃の古文も苦手だった。「万葉集」だってほとんど理解不能の歌が多い。ところがどういう訳か、その歌につく解説と訳している文が、何とも言えず好きだった。「……することよ」「……するものだなあ」と訳すあの詠嘆の感じがたまらない。古文は当然、日常では使わない言葉だが、その訳だって普段使わない言葉だ。主観的な歌なのか客観的なのか、とぼけた言い回しが短歌そのものより、未だに心に残ってしまっているのだ。
そんな解説好きの私を充分満足させてくれるのが、この『短歌をよむ』だ。ますます短歌より解説が好きになった。解説を読んで短歌を読み直すと、短歌がつくられた状況というより、解説する人の生き方、センスの方が浮きあがってくるのが、実に不思議な感じなのだ。俵さんが好きな歌を紹介すれば、その好きさ加減が短歌よりも面白い。
他にも、自分が歌を作る時に悪戦苦闘して言葉を選ぶ様が、素直に書かれていてほのぼのしてしまう。「短歌を詠むとは、感動の種を言葉に育てあげることなのだ」という。感動とは、ちょっとオーバーだとも思うが、日常で「あっ」と気づく程度の事でいいらしい。
そういえば、私がよく行くスポーツクラブに詠嘆とともに独り言を放つサウナ親父がいる。「あ〜気持ちいい」「この場所がとれてよかった」とか、いちいち思っている事を口に出すのだ。その親父、回りに他の人がいるから言葉にするのかと思ったら違った。私がサウナ室の隅でぼうっとしていると、その親父は入ってくるやいなや、嬉しそうに「あっ、誰もいないー」とのたまわった。私が見えなかったらしい。その親父は人がいようがいまいが、独り言を発していたのが判明した。なんとも感動多き日常ではないか。いつか、あのサウナ親父を歌人にしたてあげ、私が見事な解説を加え、あの独り言を永遠のものにしてみたい。解説がよければ独り言も生きるに違いない。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '94年4月号掲載)