元旦に、御来光を拝みに行った。太陽を正視すると人間は元気になるんだという思い込んだら譲らない妻の説得もあったが、私としては正月らしさをテレビにだけ頼るのも気が引けるといった消極的参加。息子もしぶしぶついてくる。高校の合格祈願があるからだ。と言っても、別に大袈裟な所に行った訳ではない。近所で一番高いと思われる場所に、朝6時半に出発して、6時50分の日の出を待つといったお手軽コース。しかし、安易な人はいるもので、そこにはもう沢山の人が来ていた。車道に止めた車に対して、パトカーが駐車違反のステッカーを貼るぞとマイクでガナッている。通る車の迷惑にもならないのに元旦から御苦労なこった。そんなこんなで、厳かな雰囲気はまるでない。
いよいよ太陽が上がって来た。地平線の近くの雲をオレンジ色に染めて、ゆっくり太陽の登場だ。見事にまんまる。一応、私も手を合わせた。その時、息子が言い放った。
「でも、地球が回っているんだよね」
私は大地がグラッと揺れる感じ、前につんのめりそうになった。確かにそうだ。御来光とは祈る側の身勝手かもしれない。
そんな事を考えさせられるのが、この本『「救い主」が殴られるまで』。祈る側と祈られる側、救ってもらいたい人間と「救い主」。頼る方と頼られる側、どうして人間はこうした関係を作りたがるんだろうか。いや、作らないと生きていけないんだろうか、
神様として、それが町工場の社長さんでも、真剣に人を救う側になると決意した時、頼られる側の苦悩は、御来光を拝みに行く人より数段も大きい事を改めて認識してしまった。いささか正月読むにはヘビー過ぎる本だったが、同時代に生きてる事が誇りに思える作家だけに、久々に興奮した。
知的であろうとする事が、思索する事が、あるいは自分の言葉で物を考える事が、いかに大変か、大江健三郎は教える。おかげで、正月そうそう生きる事と死ぬ事の意味なぞ考えてしまった。多分、誰でも一度は考えるであろう。問題はその意味を自分の物にできるかどうかだ。確実な物はわからない。でも、自分の考えを信じようとする事はできる。今のうちに暇をみつけて散歩をしながらでも、ちょこっと思索しないと、働き過ぎで定年退職、さてどうしようと思った時、即自殺とまではいかなくとも、それに近い結果が待っているぞ。
私の生きる基本は、いかにぼおっとして生きられるかという事なので、非常に楽であるのだが、このぼおっとするのも、あまり長時間だと本当に飽きてしまうので、その前後が非常に難しい。
でも、充実したぼおっとした時間のために生きると考えると、生きてる事は楽しい。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '94年3月号掲載)