なんともキュートな日本語タイトルをつけたものだ。完璧にはめられた。原題が「ピザフェイス、あるいは町のヒーロー」となっている。ピザフェイスとはいわゆるニキビづらのこと。私としては、文句なしに日本語タイトル『ぼくの欲しかったもの』に軍配をあげたい。しかし、両タイトルとも、ある種の詐欺行為だ。だって、タイトルからは軽い、アメリカの青春グラフティかと思うではないか。淡い恋の失敗談などあって、ちょっぴりハッピーな気分にさせてくれるのかと読み進めれば、ズボズボと底無し沼にはまってゆく様な、出口なしの状況が展開されるではないか。
私達のシティボーイズライブが終り、心地良い疲労感に浸っている時に、とんでもない本を読んでしまった。心地良さがふっとんだ。ずばり、ホモセクシャルの話であったのだ。少年期のホモセクシャルな体験は疑似恋愛的なものとして、私にも経験がある。中学時代に男の子同士のキスが流行って、誰かれとなく、朝の挨拶がわりにしたりした。それをピタリとやめたのは、これ以上いくと危険だと思った瞬間があったからだ。自転車の2人乗りで、友人を荷台に乗せて走っていた時、彼が私のチンチンを後から手を回し触りはじめたのだ。これはふざけているんじやないなとすぐ気がついた。ニヤニヤしているが、目が笑っていない。誰に教えてもらった訳ではないが、これはいけない気持ち良さだなとすぐに判断できた。子供から大人になる瞬間であったのかもしれない、いけない気持ち良さだと分かってやめられる人はいい。しかし、どうしようもなくやめられない人はどうする。あの時の友人は未だにつらい思いをしているんじやないかと、この本を読んで、ふと思い出してしまった。
ニューヨークでは4人に1人はゲイだという。10年後の東京もそうなるのだろうか。どう生きようと構わないが、世紀末が具体的に見えてくるのは暗澹たる気持ちになる。アメリカの小説を読んで、いつも思うのだが、彼らは、日本人に比べてコンプレックスにしろ、悩みにしろ異常に深いのではないかという事だ。感情の表現が大きいから楽天的な人種と考えるのは間違いで、負の方に精神が落ち込んでいった場合も、その感情も相当深い所まで行ってしまうと考えるべきだ。そうでなくては、あのドラッグ漬けは理解できない。
今こそ、日本食だけでなく、能面のような日本顔の作法や、事なかれ主義、「まあまあ、いいじゃない」といった妥協システムをアメリカに輸出するべきだと思うのだがいかがだろう。曖昧のまま生きる方法論を身につけた日本人の代表として、曖昧教の教祖様となって、アメリカに宣教にでも行ってやるかな。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '94年1月号掲載)