恋愛について考えてみるのだ。この『マディソン郡の橋』を読めば、日常生活を途中下車して、過去に思いをはせたり、愛の実体は何なんだろうと、恋患い状態に浸りたくなる。大阪の深夜番組で傑作なのがある。「失恋レストラン」というのだが、一度ゲストでおじゃました。若手山田雅人君が、今は亡き西条凡児さんばりの司会で、失恋ホヤホヤの女性から話を聞きだし、ゲストが悩みに答えていく。まあ、ここまではよくある大阪流のお喋り好きの素人参加番組だが、くだらないのが、トークしている背後に水着の女性が10人程<鎮座ましまして、右手にハンカチを持ち、いつも泣いているのだ。大きく泣いて欲しい時は、ADが彼女等にキューを出す。人をおちょくった企画である。笑うことより、泣くことがこんなに面白いとは思わなかった、底辺には他人の色恋沙汰はどうぞ御勝手にして下さいという思いと、失恋の痛手の深さは当人にしかわからないというコンセプトがある。意図的に泣くという事で生まれる客観性、好きだなあ。それによって当人が道化の様になってしまい、孤立して、愛の深さが浮きぼりされていくのが、実になんとも不思議であった。
この本も結局は他人の恋であるが、思いの深さがわかり瞬間に恋に落ちて行く様や、心の動きがスリリングに書かれていく。なにげなく「恋に落ちる」と書いてしまったが、なぜ「落ちる」と表現するのだろうか。「恋に登る」ではどうもまぬけな事は分かるのだが。これは、地獄の底まで道連れよ的な表現であろうが、ここに登場する中年男女は、柔道の「落とし技」のように、2人同時にカクンと落ちてしまう、気持ちいいだろうな。
女性の方は不倫なのだが、不倫という言葉を陳腐にさせる愛の賛歌があり、説得力がある。しかも、4日間の恋、理想的ではないか。そして2人は別れた後、おのおのにその恋を熟成させ、最後に大きなオチがある。これは映画化されるらしいが、スピルバーグがこのオチをどう表現するか楽しみである。
思い出の夢を現実の物として生きる女性はいい、思い出の彼は年をとらない。だが、その連れ合いの旦那さんはたまったもんじゃない。愛とは身勝手なものである。だから愛なのかもしれない。ともかくこの本を読む時、冷静になってはいけない。恋をしている時のように幻想を膨らませるだけ膨らませ、非日常の時間に酔えばいい。
そういえば、最近の私はめくるめく出会いをしてないな。愛を捨てて生きるなんてバカみたい。その気にさせる本であるよな。もう一度、妻に恋してみるかな。夫婦が駆け落ちして、誰か咎めてくれる人がいるだろうか。咎めてくれないと燃えないもんだよな。ウ〜ム。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '93年8月号掲載)