憧れてしまうのだ。だからといって、その様な生き方をしようとは思わない。演技を真似ようとも思わない。でも、憧れてしまうのだ。ファンとは違う、役者を仕事として選んでいる人なら分かる憧れである。それは、芸に対してのめり込みの深さだろうか。他人を犠牲にしても好き勝手に生きるパワフルな日常だろうか。心の底辺に流れる自暴自棄か。お友達にはなりたくないと思ってしまう殺気であろうか。どれも当てはまる。すべて、テレビに出て来るタレント(私も含む)とはひと味違ったものだ。古典的芸風といっていいかも知れない。
いずれにしろ、一番瞳れてしまうのは、生き方が建設的でないという事。どんなに金を儲けても、次の日には借金生活。この『俺・勝新太郎』では、玉緒さんに「電気代をどうやって払うのよ。」と泣きつかれたりしている。まったくもって小市民にはできない事だ。生き方のべクトルが、破滅というか、負の方向に向いている。実に役者らしいではないか。
それに比べて、まあ、比べること自体が間違っているのだが、私ときたら……。役者でありながら普通の生活をしようとする。そっちの方が、欲が深いんじゃないかと思ってしまう。どっちにしても、憧れは憧れとして、自分流に自然体でタンタンとやるしかないのだ。でも、誰も俺には憧れてくれんだろうな。それはそれでいいや。開き直る所だけ真似てやる。年頭から情けない決意になってしまった。 この本は、コカインの事件がなければ、書かれなかった本であったろうが、意外とそこの部分には触れていない。そんな事では挫折しませんよといった男気が、そうさせたのだろう。いわば、勝新太郎生い立ちの書だ。芸者しま子の話などは、それだけで最高の小説になっている、一読の価値あり。
もう1人、好きな俳優がいる。ショーケンこと萩原健一。勝新と似た様な芸風だが、彼も事件の後に本を出している。「俺の人生どっかおかしい」。読み比べてみようと本棚から、引っ張り出してみたが、感動新たに拍手を送った。こちらは、目一杯挫折しながらも黙秘権を貫く、いいね、お2方。文章もうまい、芸人をなめるなよと自分も芸人のはしくれとして声だかに言いたい気分になる。そして、2人に共通するのは、なぜ大麻を吸うようになったのか、そこの部分に触れてない事だ。口が裂けても言えない。自分の精神的な領域は守っているのだろう。そこが、芸風を知る手掛かりになるのかも知れない。でも、知りたがっちゃいけない。この後の作品を見ればいいのだ。
今月は自分にないものねだりのミーハーになってしまったが、快感というか喜びの満足度を低い所に置いちゃいかんと言う事だよ、諸君!
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '93年3月号掲載)