プロの小説家ですね、村上春樹さんは。活字を読んでいて、楽しくなるのはもちろんですが、活字でしか表現できない虚構性を持っています。イメージを喚起する文章というか、読み手の想像力がフル回転できる文章はそうはありません。まあすでに高い評価を受けてる村上さんに、いまさら言うことじゃありませんが・・・。
今、テレビがどんどん見る人にわかりやすくなって、想像力を使える場面にはなかなか出くわしません。ギャグにしても、テレビ画面にセリフをなぞる様に文字が出て、ここが笑うところですよと、しっかり提示してくれたりして、ほんとにテレビはぼうっと見る道具になってしまいました。想像力は生きてるうちに使え!これが「スプートニクの恋人」のテーマでもありますね。
私も最近、小説なんて誰でもかけるわいという気分で、ライブ用のパンフレットに短編小説まがいのものを書いたんですが、小説の人物がイメージできるように描くのは意外と難しいんですよ。私の短編は27才の女性が明るく生きるために、太陽に陰部をさらすというアイデアだけで突っ走ったんですが、主人公の女性が、どうしてもわたくしきたろうになってしまいます。虚構性にリアリティーを持たせるのは大変でした。そこいくと当然ですが、村上さんの女性は生きてますね。虚無的であって積極的に生きる。一件矛盾してることが、なんの抵抗もなく受け入れられます。これは村上春樹の得意技の真骨頂の作品です。
楽しいことがずうっと続けばいいと思うがそうはいかない。現実ですね。そしてその現実をどう処理すればいいのか。きっと違う世界に私と同じ人がいて、激しく生きている。想像力を刺激します。存在と不在、こちら側とあちら側、そして不在の方に熱い生き方がある。素敵ではありませんか。想像力も現実という気がしてきます。
あちら側を死んでからの世界と捉えては、宗教的に沢山の人がイメージしてますが、現実に生きてるもう一人の自分が住んでる違う世界。ブラジルあたりで熱い恋をしている自分、日本の片田舎で新しい祭りなどを考えている自分。想像力は遊べます。現実を生きる原動力にもなります。
先日、仕事で和歌山の熊野古道を歩いたんですが、実際あちら側とこちら側があるんですね。橋を渡るとあちら側ですと云われて歩き始めれば、杉の木立に囲まれた素敵な道。あちら側と云われても現実です。でもそこには純粋な自分がいる様な気がします。それがあちら側の自分かも知れません。そうなるとあちら側とこちら側は人間の幅なんでしょうかね。振幅大きく生活しようと思わせてくれる珠玉の作品でした。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '99年8月号掲載)