どうも私は何か賞を頂いた本に弱い。「季節の記憶」は帯にダブル受賞と書いてある。谷崎潤一郎賞と平林たい子賞をこの本は頂いている。出版社さんが売らんがためにいろいろな賞があるとは知りつつも、小説界も信用を失うことはしないだろうと、私は賞を信用しているのだ。賞をとっておめでとうと寛容な気分で読むのもこちらがハッピーになれる。私は意外と皮肉れていないのだ。また選考委員の人たちは何を評価したんだろうと読み始めるのも、ダブルな楽しみになる。
たぶん、帯がなくて「季節の記憶」という静かなタイトルだけだったら、この本を手にしなかったかもしれない。中身も実に静かであった。大きなストーリーの進展があるわけじゃなし、恋愛があるわけじゃない。鎌倉を哲学散歩してるような小説だ。悩める子羊は、「生き方読本」や「宗教の本」を漁るより、この本を手にするべきです。
大きな野心も成功もなく、今を楽しくたんたんと生きるには、自分なりの哲学が必要なんだなとつくづくわかります。元来私は、結果から原因を考える考え方は嫌いなんですが、保坂さんも徹底してる感じがしました。私も、因果応報なんて、わからないことをわからないままにしておくのが嫌でちょっと偉い人が勝手に考えた論理だと思ってます。結果の原因を探ろうとすると、悩める子羊はどんどん深みにはまっていくんです。一流プロ野球の選手も言っておりました。スランプになったら練習はしない。結果を気にしない。そして好調な時ほど徹底的に練習するんですと。ちょっと的はずれのようですが、今を好調に快適に生きるってそういうことでしょう。これは楽天的というより積極的な生き方ですよね。その辺のことを保坂さんはビチッと言っております。
「原因と結果は一対一対応してないんだよ。結果というのはじつは出たとこ勝負なんだよ」 コップをあやまってテーブルから落とした場合、割れる現実と、割れない現実があるというのだ。確かにわかりやすい。そして人は割れない場合には日頃のおこないがいいからとかいうんでしょうね。割れた場合はそのコップとは縁がなかったとか、無駄遣いの天罰だとかなるんでしょうが、ほんとに人間は現実に対して解釈するのが好きです。結果に対しての対処の仕方が人間性を決定すると言ってもいいかもしれません。まあそれが生きる哲学なんでしょうね。日常に哲学を持ち込むとはこういうことなんだなと教えられました。
今この時を快適にいきるには、過ぎ去った、起こり得なかった現実の妄想に捕らわれるより、四季折々の季節の記憶だけがあればいいと言っているような本でした。老成せずに、ドロドロ生きてこの境地に達したいものです。それじゃ無理なのか。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '99年6月号掲載)